北海道東部の無名湿原を歩く

北海道湿地踏査団 齋藤 央

 北海道は日本の湿地総面積の86%が集中する湿地の宝庫で、とりわけ道東地区には釧路湿原、霧多布湿原、野付湾、濤沸湖など数多のラムサール条約湿地が存在します。その一方で、保護の対象となっていない湿地での開発行為はすさまじく、とくに近年は数多の湿原が調査どころか命名すらされぬまま次々にメガソーラーの下敷きになっています。
 2021年7月に、別海町中心部市街地の北縁で小規模ながら非常に良好な環境の湿原に遭遇しました。宮舞町湿原と命名されたこの湿原の詳細やその後の経緯は、宮舞町湿原を大切に思う会(現・別海町の湿原を大切に思う会)の金澤裕司会長がニュースレター46号で述べておられます。残念ながら、地権者の埋め立て利用の意思は固く、絶滅危惧Ⅱ類のムセンスゲの自生地を避けつつも土砂の搬入が進行しております。

兼金沼湿原(別海町)で調査中の筆者。画像提供:水島未記氏(北海道博物館)
兼金沼湿原(別海町)で調査中の筆者。画像提供:水島未記氏(北海道博物館)


 貴重な湿原が調査保全が間に合わず開発の犠牲になる悲劇を再発させないためには、可及的速やかに湿原の実態を明らかにして官民各方面と共有することが不可欠と考え、別海町別海地区や近隣地域の面積約5ha以上の湿原の中から宮舞町湿原に似た環境と推察される湿原を抽出し、植物相を中心とした緊急調査を行いました。2022年度には前田一歩園財団と北海道新聞野生生物基金の助成を受け、2023年度も含めて別海町内22カ所、標津町内2カ所の湿原を踏査しました。ほぼ全ての湿原が宮舞町湿原と同様にホロムイソウ、コタヌキモ、ヤチスゲ、ワタスゲ、ミツガシワ、モウセンゴケなどに富む中層~高層湿原で、生物多様性保全の観点から無視すべからざる存在であること、とりわけムセンスゲの自生地が別海町内9カ所・標津町内2カ所で新たに見つかり、根室海峡沿岸が国内で最もムセンスゲ自生地が集中する"ムセンスゲベルト"であることが判明しました。
 別海町で数多の自生地が見つかったムセンスゲについてさらに調べているうち、環境省のウェブサイト『いきものログ』で浜中町姉別付近でのムセンスゲの記録を発見しました。空中写真で判読した姉別川(風蓮湖に注ぐ風蓮川の支流)南岸の姉別湿原(仮称)を2023年5~7月に5回にわたって踏査した結果、ムセンスゲの再発見には至らなかったものの、延長約1.6kmに及ぶハナタネツケバナ(絶滅危惧ⅠB類)の新自生地を発見しました。国内ではハナタネツケバナは北海道東部のオホーツク海沿岸(濤沸湖)や太平洋側(白糠町恋問湿原、釧路湿原、厚岸町、浜中町霧多布・幌戸沼)でのみ知られており、姉別湿原(仮称)は他のどの自生地よりも東に位置し、かつ根室海峡に通じる水系では初の発見となります。
 幾つかの湿原では、北海道大学総合博物館の大原昌宏副館長の研究チームや北海道博物館の水島未記学芸員との合同調査が実現しました。昨年度の調査結果は報告書にまとめ、別海町役場、環境省北海道地方事務所、釧路自然環境事務所などに提供しました。姉別湿原(仮称)については現時点の知見を植物相リストと略図にまとめ、環境省北海道地方事務所、釧路自然環境事務所に提供しました。ムセンスゲ、ハナタネツケバナ、カンチスゲ(絶滅危惧ⅠB類)は確認した全ての湿原で標本を採集し、北海道大学総合博物館陸上植物標本庫(SAPS)に寄贈しました。

別海湿原05(仮称)のムセンスゲ
別海湿原05(仮称)のムセンスゲ
姉別湿原(仮称)のハナタネツケバナ
姉別湿原(仮称)のハナタネツケバナ

 私が昨年来調査の対象にしている湿原は、現時点では一部が保安林に指定されている程度で、行政によって系統的な自然保護の対象とされている湿原は皆無です。野付・風蓮・根室半島エリアの国定公園指定が検討される中で、一部の湿原が指定区域案に含まれているものの、半数以上が環境省指定の重要湿地から漏れており、先行研究に頼った文献調査では7割以上の湿原が取りこぼされて国定公園指定を逃す恐れがあります。これらの湿原全てが然るべき形で保全され、今後の研究の対象としても注目されることを切望しつつ、2024年以降も調査を続けていこうと考えております。

ラムネットJニュースレターVol.53より転載)

2023年11月12日掲載